大正時代に生まれ、昭和、平成、令和の時代に、全国の人に愛されてきた「野球拳」。
そのルーツは、野球の普及に尽力した、松山出身の俳人「正岡子規」を育てた風土、野球に情熱を傾けてきた地域の思いがある。これを夏まつりにと、半世紀にわたって、「野球拳おどり」が愛媛、松山でおどり継がれています。
松山野球拳
おどりの
歴史
松山にも名物の踊りを
『松山野球拳おどり』(第6回までは『松山おどり』、第56回までは『松山まつり』の名称)の誕生は、昭和41年にさかのぼる。その2年前には、東京オリンピックが開かれ、日本を世界にPR。前年の41年11月には、松山-東京間に空の直行便が飛ぶようになり、41年4月には天皇・皇后両陛下をお迎えして、温泉郡久谷村(現松山市)で植樹祭も行われた。いわば、日本全国が上昇気運に加速をつけかけえた時代であった。
「祭り」と言えば、やっぱりハイライトは「踊り」だろう。四国には、全国にその名を知られる“おどり”が多い。筆頭は、何といっても徳島の「阿波おどり」、高知の「よさこい鳴子おどり」も有名だ。そして、香川の県都にも“高松おどり”が39年にお目見えした。松山市としてもこの際、名物の“おどり”をつくって「踊りの四国ひと巡りは、どんなものか」と考えたのが、『松山おどり』誕生の経緯だった。
かくして、松山市・松山商工会議所・南海放送・愛媛新聞社が主催する『松山おどり』は、手探りながら歩みを始める。
周辺の市町村からも参加
新しく作られた踊りは「伊予の松山鼓踊り」。能楽ファンの多い松山で、能の舞をヒントに考案された“鼓踊り”で、マンボ調の軽快な踊り。「全市挙げての夏祭りにしよう」と、市内各所の盆踊りを統一する形がとられた。
「第1回『松山おどり』は、8月13・14の両日と決まり、前日の12日には、扇崎秀薗舞踊集団の踊り子らが参加、オープンカー10台を繰り出してのパレードで、『松山おどり』の宣伝開始。午後1時、市役所前を出発したが、それに先立ち、得能通任松山市助役が
「新しい“松山おどり”を盛んにする先達として、みなさん頑張ってほしい」
と激励した。宣伝パレードは、市内一円のほか、北条市や伊予市方面まで足を延ばして広く参加を呼び掛けた。
いよいよ、まつり初日。市内をはじめ北条市や周辺の町村からの参加組もあり、45連、約3千人の踊り子が、二手に分かれて松山城下の中心街を踊り抜いた。
※当ページに掲載している文章・写真は「松山まつり三十周年記念誌」より転載しています。
野球拳
おどりの
歴史
「野球拳おどり」登場
松山の新しい“名物おどり”に―――と、期待を込めて打ち出した「伊予の松山鼓踊り」だったが、評判は悪くはなかったものの新作ということで、もう一つ市民に溶け込むことができなかった。結局、第4回で幕を引き、昭和45年の第5回から「野球拳おどり」にバトンタッチすることになる。
「野球拳」の歴史は古い。ただし、ひょんなことから誕生したいわくがあった。大正13年(1924)10月、高松市の屋島グラウンドが完成し、その記念として近県実業団野球大会が催された。当時、西日本に名が轟いていた強豪の伊予鉄電(現伊予鉄道)も遠征した。対戦相手は、水原茂(元巨人軍監督)らを擁する高商・高中倶楽部連合。結果は、8-0で伊予鉄電野球部の完敗だった。
その夜、高松市内の旅館で懇親会が開かれ、宴席は隠し芸の競い合いとなった。芸達者揃いの高松勢の前に、またもや伊予鉄電ナインは意気消沈。そうした仲間を奮い立たすために生まれたのが、この踊り。作者は、当時の伊予鉄電野球部の前田伍健(当時は五剣)副監督であった。
即興で伍健が歌を作り、別室に部員を集めて振り付けを教えた。そして、伍健の歌と三味線に合わせ、
野球するなら こういう具合にしやしゃんせ・・・・・・
ランナーになったら エッサッサーアウト セーフ ヨヨイノヨイ
全員がユニホーム姿で踊りを披露すると、大いに受け、座は盛り上がり、夜の部は伊予鉄電の大勝利となった。
この踊り、その後は松山でも流行するようになり、宴席芸の定番となっていく。当時は、「野球拳」の最後にアンパイア(庄屋)、受ける(狐)、打つ(鉄砲)という“キツネ拳”が行われていた―――というが、戦後はジャンケンで収めるようになった。
昭和29年、突如として「野球拳」は全国的ブームとなり、キング、日本コロムビア、ビクター、ポリドールなどのレコード会社が競って発売した。ところが、作者は不明のまま。そこへ、前田伍健が名乗り出て、一件落着したいきさつもあった。
ちなみに伍健は、後に県川柳文化連盟初代会長におさまった人物。松山が空襲で焼土と化したとき、「考えを直せばふっと出る笑い」の川柳を各所に貼り出し、市民を勇気づけたエピソードもある。
「伊予の松山鼓踊り」の後継を考えたとき、「伊予万歳」などの候補があれこれ挙げられたが、結局、親しまれている「野球拳」に落ち着いた。当時、テレビ番組で「野球拳」の面白さが取り上げられ、全国的にも有名になっていた時期でもあった。
愛媛邦楽連盟舞踊部会(藤間藤一郎部会長)が振り付け、「野球拳」は室内から、戸外へと“進出”を果たした。『松山おどり』のメイン催事となったわけである。
野球拳
サンバの
歴史
「野球サンバ」で盛り上げ
松山市制百周年の記念の年、第24回(平成元年)には、新しい踊りとして「野球サンバ」(作曲・ダン池田)が登場、『松山まつり』は一気にボルテージが上がった。
神戸市のサンバチームの指導を受けた16チーム、約800人が、カラフルな創意の衣装やシルクハット姿で、軽快な音楽に乗って「ビーバ マツヤマ」と、情熱的な踊りを繰り広げた。本場ブラジルのリオから踊り子も参加して、松山っ子を驚かせた。
“真夏の夜の祭典”にふさわしい、強烈ビートの熱気あふれる踊りとあって、サンバの踊り手は、年々増加の一途。出場チームの衣装も絢爛さを競い、アイデア競争も過熱傾向で、見物客を喜ばせている。
そして
その先へ
「Baseball-Dance」誕生
令和3年(2021年)、新型コロナウイルス感染症により野球拳おどりは2年続けて中止。
この間、野球拳おどりを世界に配信するため、インターネット上で発信できる新たなコンテンツとして、Baseball-Danceが生まれました。
今回のコンテンツ制作には、松山野球拳おどり実行委員会の呼びかけにより、日本を代表するエイベックス・エンタテインメント株式会社がアサイン。
総合監修は、グローバルに活躍する古坂大魔王。
音楽プロデュースは、国内外に様々な楽曲を提供するKENJI03(BACK-ON)が制作。
タイトルロゴなどのデザインにTEEDA(BACKーON)が参画振り付けは、中高生に人気のlol-エルオーエル-の振り付けも担当している、小見山直人(lol-エルオーエル-)が制作。
このメンバーと、本家野球拳の家元、澤田剛年氏が、松山野球拳おどり実行委員会とともにディスカッションを重ねて、Baseball-Danceを制作。
デジタルを活用して、愛媛・松山から世界に発信できるコンテンツが誕生した。